こんにちは。メブコです。
今回は、久しぶりのエッセイです。
しばらくエッセイはお休みしていたのに、なぜ今になって再開したかと言いますと...
ひさしぶりに古傷をエグられる出来事があったからなんですよね...
3月末に「トモダチコレクション(以下、トモコレ)」の新作が発表されたじゃないですか。
それ以降、自分のSNSにもトモコレ関係の投稿がよく回ってくるようになったんですが...
それを見ていると思い出してしまうんですよ…
ゲームを買って貰えず、友達の輪に入れなかった子供時代を…
当時の私にとってゲームとは、周囲との繋がりを産み、自分を集団の一員だと認識させてくれるものだったんです。
「幼いうちにゲームなんて与えるべきではない。ロクな大人にならない。」というのが、私の両親の考えだったわけですが、私は大人になった今でも「それはどうなんだろう」と思ってしまいます。
実際、子供時代にゲームを与えられていた子たちが、みんながみんな落ちこぼれたかといえば、それは否じゃないですか。
私よりも良い高校・大学に進学して、楽しい学生時代を過ごして、当たり前にパートナーを見つけている人がたくさんいるんですよ。
それに比べて私は何なんでしょう。
子ども時代は、ゲームをする友達を横から羨ましそうに見つめ、ゲームを持っていないがために自然と仲間外れになってしまうこともしばしば…
「1人でも大丈夫。自分で自分自身を楽しませよう。」という考え方が芽生えたのは、思えばその時のような気がします。
大人になった今でも、いつも疎外感を感じてしまうんです。
大人数で話していると、自分だけ浮いているのではないかと思ってしまう。
自分のいない所でこの人たちはもっと楽しい話をしているんだろうな、今は私に合わせてくれているんだろうな。と思いますし、
それに対して、こんなに捻くれた自分のことを好きになる人なんかいるわけがない。とさらに考えてしまいます。
この「みんなで一緒にいると不安。一緒にいる人をどこか信じきれない。」という思いこそが、私が子供の頃についた傷なんだと思います。
幼いころに「人の輪に入って、それを楽しむ」という経験ができなかったがために、一生私はこの傷を抱えていくんですよ。
両親のことは大好きですし、たくさん感謝しています。
高い学費を出して、こんな娘を大学にまで通わせてくれているわけですし...
家族仲も良いですよ。
それでも、やっぱりゲームは買って欲しかったよ。
両親だって、娘に一生消えない傷をつけてしまうなんて予想だにしなかっただろうしなぁ...
あの時、たった1つゲーム機を与えてくれていれば、私はみんなの輪に入れたかもしれない。
もし、みんなの輪に入って、その中に自分がいることを当然だと感じることができていたら…
大人になった今でも、これほどの疎外感を感じることはなかったのかもしれない。
「かもしれない」ばかりで、自分でもちょっとうざったいと思います(呼んでくださっている方に申し訳ない...)
私は自分自身を、どのコミュニティにも馴染めない「欠陥品」だと思って生きています。
たぶんこの感覚は、一生治らないんだろうな。
確かに、ゲームを与えられなかったことによる良い影響というのも、少なからずあったと思いますよ。
ゲームがない分読書をしていたので、大人になった今でも本を読む習慣が残っていますし。
でも、当時の私にとってゲームは、周囲との繋がりを産み、自分を集団の一員だと認識させてくれるものだったんです。
それを手に出来なかったがために、私は消えない傷を抱えて生きていかなかればなりません。
私の好きな『美しい彼』という小説の中にこんな一文が登場します。
三つ子の魂百までと言うけれど、一生持って歩くバッグの中身は、意外と子供のころから入っているものが多い。
誰とも交換できないし、誰にも持ってもらえない。
ずっと自分で持ち歩くのだ。死ぬまで。
『美しい彼』の主人公たちも、一方は吃音症でいじめられた過去、もう一方は幼少期の複雑な家庭環境により、傷を抱えています。
そんな彼らと今の自分って、ちょっと似ているなぁと思いました。
この傷を「一生下ろすことのできない荷物」と表現する凪良ゆう先生は流石としか言いようがないです。
結局この記事で何が言いたいのか、自分でも分からなくなってきました。
ただ、自分はこんなことで傷ついたんだ!というのをどこかで伝えたかっただけなのかも。
子供の頃の出来事は、一生消えない傷になります。
でも、その傷を抱えて、自分を出来損ないの人間だと感じながらも、また明日明後日と生きていかなければならないんですよね。
こんな長い文章に付き合わせてしまって申し訳ないです...
ここまでご覧いただきありがとうございました。
